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鈴木幸之助1 7寸のこけし
鈴木幸之助1
今回の、鈴木幸之助のこけしは昭和30年代の後半ぐらいの作と想像する。大きさは7寸で、鬢の後ろに描かれた髪飾りは眉と同じぐらいの高さから始まっているので、戦前から昭和30年前半の作と比べると一目瞭然である。

胴は肩にカンナ溝があり、徐々に細くなり2/3ぐらいのところから裾に向かって、今度は少しづつ広がりを見せており、この形態がたまらなく私は良いと思っている。4段の重ね菊をサラサラと描き、若いころのキリット引き締まった顔も良いが、この柔和な晩年の顔の描彩にも惹かれものがある。

鈴木幸之助は明治21年に宮城県柴田郡川崎村笹屋に生まれ、6歳の時に青根温泉宿の佐藤重太の養子となった。16歳で佐藤重吉に弟子入りしこけし作りを習得した。成人し21歳の時に養家との折合いが悪くなり、尾形政治に呼ばれ肘折に移住した。肘折では佐藤文六の妻の勧めで八鍬亀蔵の家に落ち着いた。その後、尾形木工場ができると、有能な職人として参加したが工場の閉鎖を機に独立し自宅にロクロを据えこけしを作った。昭和14年から28年の間はこけし制作を休んでいたが、昭和20年代の末頃からこけし作りを再開し、昭和42年に80歳で亡くなっている。
こけしの話119
今回の、鈴木幸之助のこけしは昭和30年代の後半ぐらいの作と想像する。大きさは7寸で、鬢の後ろに描かれた髪飾りは眉と同じぐらいの高さから始まっているので、戦前から昭和30年前半の作と比べると一目瞭然である。

胴は肩にカンナ溝があり、徐々に細くなり2/3ぐらいのところから裾に向かって、今度は少しづつ広がりを見せており、この形態がたまらなく私は良いと思っている。4段の重ね菊をサラサラと描き、若いころのキリット引き締まった顔も良いが、この柔和な晩年の顔の描彩にも惹かれものがある。

鈴木幸之助は明治21年に宮城県柴田郡川崎村笹屋に生まれ、6歳の時に青根温泉宿の佐藤重太の養子となった。16歳で佐藤重吉に弟子入りしこけし作りを習得した。成人し21歳の時に養家との折合いが悪くなり、尾形政治に呼ばれ肘折に移住した。肘折では佐藤文六の妻の勧めで八鍬亀蔵の家に落ち着いた。その後、尾形木工場ができると、有能な職人として参加したが工場の閉鎖を機に独立し自宅にロクロを据えこけしを作った。昭和14年から28年の間はこけし制作を休んでいたが、昭和20年代の末頃からこけし作りを再開し、昭和42年に80歳で亡くなっている。
こけしの話119
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