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佐久間芳雄1 方木田時代
佐久間芳雄1 方木田時代
私がこけしに出会った昭和52、3年頃、土湯系は岳の大内一次や土湯温泉の西山憲一、渡辺忠蔵など鄙で素朴な魅力を求めて工房を訪ね歩いた。
佐久間芳雄工人のこけしは、あまり土湯温泉の土産屋では見かけることがなかったと記憶しているが、鄙で素朴という私のこだわりからも、あまり熱心に手に入れる努力をしていなかったような気がする。確か最初に手に入れたのはアサヒ写真館だったと思う。椿材を使った木地で、かなり細かい模様の3寸の髷のこけしだった。
佐久間芳雄工人は大正10年1月15日、木地師芳衛の長男として福島市早稲町に生まれた。尋常小学校を卒業してから祖父由吉、父芳衛に木地を習ったが、その後、横浜に働きに出て、昭和19年に召集となり戦地に赴く。復員後は木地の仕事に携わったが、こけしを本格的に作り始めたのは昭和30年頃と言われている。
今日、紹介するこけしは昭和57、8年頃の作で方木田時代のもので、大きさは5寸で笠を被っている。淡い赤色の染料で繊細に描いた胴模様やキリットした顔の描彩を私は気に入り大切に飾っている。
世間では息子俊雄と不和になり方木田に越した昭和54年頃からのこけしは初期の作品と比べ緊張感に欠け散漫気味なったと評されている。
こけしの話222
私がこけしに出会った昭和52、3年頃、土湯系は岳の大内一次や土湯温泉の西山憲一、渡辺忠蔵など鄙で素朴な魅力を求めて工房を訪ね歩いた。
佐久間芳雄工人のこけしは、あまり土湯温泉の土産屋では見かけることがなかったと記憶しているが、鄙で素朴という私のこだわりからも、あまり熱心に手に入れる努力をしていなかったような気がする。確か最初に手に入れたのはアサヒ写真館だったと思う。椿材を使った木地で、かなり細かい模様の3寸の髷のこけしだった。
佐久間芳雄工人は大正10年1月15日、木地師芳衛の長男として福島市早稲町に生まれた。尋常小学校を卒業してから祖父由吉、父芳衛に木地を習ったが、その後、横浜に働きに出て、昭和19年に召集となり戦地に赴く。復員後は木地の仕事に携わったが、こけしを本格的に作り始めたのは昭和30年頃と言われている。
今日、紹介するこけしは昭和57、8年頃の作で方木田時代のもので、大きさは5寸で笠を被っている。淡い赤色の染料で繊細に描いた胴模様やキリットした顔の描彩を私は気に入り大切に飾っている。
世間では息子俊雄と不和になり方木田に越した昭和54年頃からのこけしは初期の作品と比べ緊張感に欠け散漫気味なったと評されている。
こけしの話222
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