2017-05

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後藤善松1 忘れていたこけし

後藤善松1 忘れていたこけし

 十数年前に購入した大沼希三名義のこけしを捜している。どこに仕舞い忘れたのだろうか。こけしを入れた段ボール箱や紙袋から一つ一つ取り出しては包みを解き確認しているが見つからない。箱や袋からはヤフオクで落札して一度も飾っていないものやいつごろ入手したかも忘れているこけしが出てきて眺めたり乾拭きしたりで捗らない。

後藤善松1-1

 今日は鳴子系の後藤善松(ごとうぜんまつ)のこけしが段ボール箱の底の方から出て来たので紹介する。昭和15年頃の作で全体的に日焼けと褪色が進んでいたので飾らずに段ボール箱に埋もれたままになっていたのだと思う。大きさは8寸5分で胴模様は戦前の善松の特徴となっている大輪の正面菊と横菊が描かれ、一重瞼が愛らしく整った顔をしている。もう少し保存状態が良かったらと悔やんでいる。
 
 改めて善松のこけしを眺めてみると穏やかで甘い顔をしている。こけし棚のガラス戸を明けていつでも見える棚に収まった。

後藤善松1

 後藤善松は大正5年に鳴子に生まれた。昭和7年、17歳の時に岡崎斉の弟子となり6年間木地挽き専門として指導を受け、昭和12年頃より米沢、仙台、鎌先、松島、赤倉などを流れ歩き木地挽きやいろいろな職を転々としている。
 昭和15年に体調を崩して鳴子に戻り、落ち着いてからはこけしや木地玩具などを作るようになった。こけしは見取で作り始めたが高橋盛や大沼竹雄の影響を受けたと言われている。眼点が大きく温和な面相のこけしで、胴模様は高橋盛風の大きな菊を2つ描き、花弁に特徴があるといわれている。善松は洒が好で、酒に溺れていたのだろうか。ほとんど仕事をしなかったという。

 戦後は稀に小寸の豆こけしを挽いていた。東京に於いて昭和37年に49歳で人生の幕を閉じた。善松には後継者がなく一代で木地業は途絶えている。
 
こけしの話280

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小松五平1 大湯のこけし

小松五平1 大湯のこけし

 師走となり今年も残り僅かとなった。今年は暖かい。例年なら2月ごろに咲き出す紅侘助や太郎冠者の椿の花が見ごろになっている。

小松五平1-2

 今回は小松五平のこけしを紹介する。大きさは6寸で制作時期は不明である。眼が優しく鄙びた顔、胴の上下を赤く塗り、その内側に赤と緑の細いロクロ模様が3本ずつ引かれ、竹串に刺した団子状の菊の花が3輪描かれている。

小松伍平1-1

 小松五平は、明治24年1月14日に鳴子温泉郷の近く中山平に生まれる。17歳頃に鳴子の高橋万五郎の弟子となる。後に小松留三郎の妹アサと結婚し小松姓となる。

 岩手や宮城の各地を渡り歩き、大正10年、31歳の時に秋田(秋田県鹿角市十和田大湯)の大湯ホテルの諏訪富多氏に招かれ、以来30年間、十和田湖の南に位置する大湯温泉でこけしを作り続けた。昭和43年に病に倒れ47年に82歳でこの世を去った。

小松伍平1

 五平さんのこけしは素朴な古鳴子の面影を残している。

こけしの話273

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大沼健三郎2 75歳の作

大沼健三郎2 75歳の作

 私がこけしを集め始めた頃、昭和50年のこけし手帳を見ると鳴子には明治生まれの工人が7名いて、その中で大沼健三郎工人が最高齢だった。以前にも書いたように高齢で体調もすぐれなかったようで健三郎さんの作品を見かけることは少なく甘美な雰囲気を持つ健三郎工人のこけしをいつか手に入れてみたいと思っていたがなかなか巡り合う事が出来なかった。

大沼健三郎2-1

 今日紹介するこけしは健三郎さんの5寸5分で75歳と自筆で書かれており昭和44年ごろの作である。全体的に胴が細く小さな顔が上品に描かれている。

大沼健三郎2

 このこけしは鄙という言葉がぴったりの味わいを持っている。


こけしの話82

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大沼健三郎1  最初の出合

大沼健三郎1 最初の出合


 私は昭和53年と54年に鳴子を訪ねている。大沼健三郎さんのこけしを購入したいと思っていたが、高齢(84,5歳)と持病があり体調があまり優れず製作本数が少なくなっていると聞いていた。私の探し方がも悪かったのかも分からないが、土産屋やこけしの作家の店を回っても見つけることができなかった。
 平成7年に家族で出かけた那須旅行で湯本の民芸店『みちのく』のガラスケースの中に胴の細い7寸の健三郎さんのこけしを見つけたので購入した。

大沼健三郎1-1
 
 今日紹介するこけしは最近入手したもので大きさは4寸5分、胴底には71歳と記してある。健三郎さんのこけしは71歳(昭和40年前後)がピーク期と言われている。目、鼻、口とも小さく中央に寄り優しい表情をしている。胴の菊模様が淡々と描かれ飛び鉋の模様(陶芸では飛び鉋と呼んでいるが、「ざら挽」「うてらかし」が本当の呼び名・弾性を持たせた鉋を「びり鉋」と呼ぶ)が美しい。

大沼健三郎

 大沼健三郎さんは明治27年2月15日に大沼甚三郎の五男として生まれ、父甚三郎、兄甚五郎につき木地を修業した。昭和58年1月没。


こけしの話28

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本間留五郎1 昭和17作

本間留五郎1

 昭和48年のオイルショックにより石油エネルギーの価格が急騰した。巨大エネルギーを消費する業種は大きな危機に瀕し昭和50年代初頭から省エネルギー熱が高まった。私も昭和52年の4月に省エネのプロジェクトチームに参加することになった。
 私の所属したチームに山形県の温海温泉に実家があるTさんがいた。Tさんは福島県田村の出身で、父親の仕事の関係で宮城や山形を転々としていたそうだ。私はこけしの蒐集を始めて間もないころだったので東北地方の旅の話題で盛り上がり、親子ほど年が離れていたのに気が合い家に食事に招待されたりするようになった。いつの間にかTさんも実家に帰るたびにこけしを買い蒐集するようになり、私も何点かお土産に頂いたりした。
 温海時代の話題では阿部進也さんと歳が近く一緒に遊んだことや常吉さんの工房を覗いたりしていた話をしていた。
 このプロジェクトは2年間で初期の目標を達成することができたので解散することになったが、その後もTさんとは時々会ってはこけしの話をしたりお酒を飲んだりしていた。一緒に仙台や秋保に旅行をしたこともある。十数年前に定年になり奥さんの実家がある仙台にマンションを購入し帰っていた。定年後、何年かは年賀状が届いたりしていたが今は音信が途絶えて久しい。

本間留五郎1-1
 
 写真のこけしは本間留五郎さんの5寸で昭和17年の作、日焼けと褪色が著しいが桔梗の茎と葉に緑色が微かに残っている。顔は細い眉・目と鼻の距離が大きく戦前の留五郎さんの特徴が出ている。
 この温海のこけしを眺めながら仙台で暮らすTさんの事を、ふと思った。震災後も無事に暮らしているのだろうかと。 

本間留五郎1
 
 本間留五郎は明治42年12月6日に山形県の温海に生まれ、大正13年4月より鳴子の岡崎斉の元で木地修業を始める。昭和2年の年期明け後に岡崎才吉の工場で職人を勤め、昭和12年に応召し昭和15年の除隊を機に故郷の温海へ戻り木地屋を開業、家業の時計屋の傍ら木地玩具やこけしを製作した。


こけしの話10

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